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自分を愛せなきゃまわりを愛せないのだろうか

以前、こんなことを言われたことがあります。
「自分自身のこと嫌いなまんまで大切にできるとでも思ってんの?」
彼女は「自分を大切に想う人だけが、まわりを大切にできる」と考えていたのです。
それを言われたのは、たしか高校入学してすぐくらい。勉強はちょっとずつ好きになれていたけれど、中学生のときのいろんな経験から自信を失った私は、自分のことを「無価値な人間」だと考えていました。

無価値な人間なんて愛せない

自信がない、自分のことを嫌いな私なりに生きてきたのですが、そんなときに言われたのが
「自分自身のこと嫌いなまんまで大切にできるとでも思ってんの?」
でした。
たしかに自分のことは嫌いでした。なんでいつも上手くできないの、なんでいつもこんななの、なんでいつも失敗ばかりなの・・・って自分を責めてばかりいました。
自分を責めて、嫌って、常に「消えたい」って気持ちと「助けてほしい」って気持ちをぎゅうぎゅうに心の中に詰め込みながら、それでも必死に生きてきました。
でも、だからってまわりのことも嫌っているわけではなくて。
自信をなくしていた私に「勉強」っていう、嫌なことを全部忘れて熱中できるものの楽しさを教えてくれた先生方には感謝しているし、生きる気力になる「夢」を持つきっかけをくれたK先生にも感謝しています。苦しみの真っ只中にい続けたような中学生活を最後までやめずに過ごせたのは心の支えになってくれる友人の存在があったからでした。
それだけじゃなくて、いろんないさかいやすれ違いがあって今も決して「好き」だなんて言えないけれど、それでもここまで育ててくれて、今も養ってくれている両親にはそれなりに感謝しています。
他にも、たくさん。
もう途切れたご縁も、未だに続いているご縁もあるけれど、その全ての出会いがあったからこそ、今の自分があると思っています。
「みんな大好きー!世界中のみんなを愛してるー!!」みたいなことは言えませんが、それでも私の手の届く範囲の人のことは、できるだけ愛して生きてきました。
けれど「自分自身のこと嫌いなまんまで大切にできるとでも思ってんの?」と言われた瞬間、私はわからなくなってしまったんです。
私は私のことが嫌いでした。そういう私は、まわりの人を大切にすることはできないのだろうか。私は誰かを愛することなんてできないのだろうか。そんな考えが、頭の中を何度も巡って、常に居座るようになりました。
落し物を拾ってくれた人に「ありがとうございます」と言ったときでさえも、「私は私のことが嫌いなのに?」なんて、自分で自分を嘲笑しているような考えが頭の中に居て、そいつはいつまでたっても私の中からいなくなってはくれませんでした。
当時から私は「自分のことを嫌いでも、まわりのことは好きでいつづけよう」と思いながら生きていました。けど実際には、その言葉自体にも自信はなかったのです。だってその言葉を生み出したのは、「大嫌いな私」だったから。
自分に自信がないのに自分がつくった言葉に自信をもつことなんてできないですよね。
そんなわけで、私は自分が生み出す言葉や行動、その他諸々とにかく自分に関わるもの全てに対して自信を失っていました。つまりはそれだけ、ブレッブレだったんです。
誰かの考えをきいたりしたときに、それが自分と離れたものであればあるほど「私は今のままでいいのだろうか」という不安にかられました。
今じゃそんなことないけれど、結局それは「自分の考えの根幹なんて自分でさえ変えることはできない(変えるとしたら根気のいる作業になる)」ってのを自覚したことと「自分と相手は所詮別物。わかる部分よりわからない部分の方が多くて当然」ってのを理解したこと、その2つがあったからです。それを知る前――つまりこの言葉を言われた当時は、ただただ「自分の信じる言葉」というものが揺らぐだけでした。
「人を愛すには、自らを愛せなければいけないのだろうか」
これは私の人生のテーマとも言える存在になっていきました。
このテーマに対する答えは、出ているような、出ていないような。
「自分を嫌いでも誰かを好きになることはできる」
その考えは、今でも変わっていません。
でも、「愛する」というものの捉え次第では変わってくるのかなぁと。
深いです。まだまだ底は見えません。
それでも、自分なりに考え続けていこうかと思います。あなたはどんなふうに考えるのかな(*´`)
鷹れん

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