- ※このインタビューはフリースクール「Riz」との共同制作記事になります
- 学校での居場所のなさなどで苦しんでいる中高生たちへ向けて、不登校経験者たちに当時~今に至るまでの話を伺う「元不登校生インタビュー」。
今回はRizの交流スタッフでもある「にしおか」さんに、お話を伺いました。
──まずは簡単に、自己紹介をお願いします。
にしおかです。
広島県出身で、今年31歳になります。
両親と兄と妹の5人で住んでいました。
10年以上も前のことなのであやふやなんですけど、頑張って思い出します(笑)
いきなり雰囲気の変わった環境に追いつけず……。不登校になった時のこと
――通っていたのは、どんな学校でしたか?
中高一貫のカトリック系の女子校で、私は中学校から通っていました。
敷地の中には、幼稚舎から専門学校まであって、シスターの先生も多かったです。
宗教教育と女性の自立を信条としていて、奉仕活動や募金活動にも積極的な学校でした。
――学校に行きたくなくなったのはいつぐらいからでしょうか?
学校が嫌になったのは、高校に入ってからでした。
中学生の時は、部活のために学校に行っていたので、学校の中のことはあまり気になりませんでした。
高校では、大学受験の話が出るようになり、校則の締め付けも厳しくなりました。
高校1年生の時から「行きたくない」とは感じていて、1年も2年も休みがちではあったと思います。
実際周りでも、高校からは来なくなる子がちらほら出てきていました。
本格的に不登校になったのは、3年生の時でした。
——具体的に「こういうの嫌だったな」と思うことってありますか?
思い返すと、原因は1つではなかったです。
まず、制服が鉛のように重かったです。
シスターのような制服で、着ると体がこわばって緊張していたんだと思います。
肩こりもひどくて、家に帰って制服を脱ぐと、本当に体が軽くなるんです。
朝、時間通りに起きても、出発はその2時間後、学校に着くのはさらに2時間後でした。
もう足が学校に進まなかったんですよね。
遅刻して授業中に教室に入ると目立って嫌なので、靴箱でお昼のチャイムが鳴るのを待つんです。
チャイムと同時に教室までダッシュして、騒がしくなってから紛れ込んでいました。
周りの人に私がいることを認識されたくなかったんです。
教室にいると思われたくなかったし、話しかけられたくなかった。
優しい言葉や、気にかける言葉さえ言われたくなくて、とにかくしらんふりしてほしかったんです。
奉仕活動や募金活動に積極的な学校で、それも窮屈に感じていました。
ある時、文化祭の収益の使いみちを話し合う場があったんですけど、みんな結論は募金しかないのは分かってるんです。
でも先生としては、生徒が自主的に「募金しましょう」と言ったようにしたかったんだと思います。
その時は、奉仕活動や募金が全部嘘っぽく見えてしまって、もうアレルギーのようなものでした。
いくら祈ったところで、神様は私を楽にしてくれるわけではありませんでしたし。
とにかく、自分を拘束するすべてが煩わしくて、逃げたくてあがいていました。
学校と違う方向の電車に乗ったり、親と偽って学校に欠席の連絡をしたり、通学かばんを田んぼに捨てたこともありました。
でも当時は、自分の気持ちをうまく言葉にできなくて、なかなか周りに伝えられませんでした。
「なんで学校に行くんだろう」悩みながらも通い続ける日々
――どんなことを考えていたのでしょうか?
「なんで学校に行くんだろう」「なんでこんなことするんだろう」という疑問をずっと抱えていたんです。
高校生にもなると、同じような疑問を持つ子はきっとたくさんいると思います。
でも、多くの人は、そういう疑問も一旦横に置いておけるんじゃないのかなと思います。
自分の気持ちより、やらなければいけないというルールを優先できる。
私はその疑問が大きすぎました。
学校で教わる宗教についてもすごく真面目に考えていました。
周りの子は、先生の前でだけいい子にするとか、表面上は従うとか、要領の良さを身につけていましたが、私はそういうことができなかったので、全てにぶつかっていました。
ただ、先生も含め一貫して周りの人は優しくて、不登校を責められるようなことは、あまりなかったんです。
ずっと、自分の中のドロドロとしたものとどうやって戦っていくかということが課題で、自分の心の波のコントロールが難しかったんです。
いじめがあったわけでもなく、友達もいるのに学校に行けないことが、余計に疑問を大きくしていきました。
兄も妹もそんなことなかったので、なんで自分だけこんななのかな、と考えていました。
他の子ほど器用じゃなかったな、と今では思います。
——それを相談することは、なかなか難しかったですよね。
他の人に相談しても解決しないのは分かっていたんです。
学校に行く理由って、結局は本人の問題で、周りから何を言われても納得できなかったと思うんですよね。
今思えば、そういう当たり前のことに疑問を持つことをわかってほしかったんです。
私と同じことに疑問を持つという事でも、その問いに対して、その人が考えぬいた答えを聞くでもよかったです。
私にとっての正解を教えてほしかったわけではなく、耳障りの良い言葉ではない、真に迫る言葉を聞きたかったんだと思います。
つまり、生きている叫びのようなものですよね。
本の中には、同じ気持ちの人がいて、ずっとそういうところに逃げていました。
その中から、自分の状態になるべく近い言葉を探すんです。
自分の疑問は解決しなくても、自分の気持ちを代弁してくれているようでした。
そうやって自分について絶えず考えていることが、不安に飲み込まれないための唯一の防衛手段でした。
少しでも気を抜くと、足を取られて引きずり込まれるような気がしていました。
今思うと、よく生き延びたと思います。
見守ってくれた家族とのこと
——学校を休みがちになった当時、ご家族はどんな反応をされていましたか?
一番悩んでいたのは母親でした。
当時、直接話をすることはあまりなかったけど、習い事の先生に「行きたくない理由が分からない」と話していたと後になって聞きました。
父親も、出勤前に私が沈んでいるのを見て、変だなとは感じていたと思います。
見守ってくれているような感じでした。
何も言わないでいてくれることがありがたかったです。
——他の選択肢を考えたことはありますか?
母親から一度「海外の学校はどうか」と言われたことはあります。
近所に海外の学校に行った子がいたので、その選択肢だったんだと思います。
——その提案を受けて、西岡さんとしてはどう感じましたか?
今の環境から脱出できるのではと期待して「行きたい」と返事したと思います。
でも、その後私から何かしたわけでもなく、両親が何か行動したわけでもなかったです。
高校を辞めたいという話もしたけど、「高校くらいは卒業してほしい」と言われて、どうにか折り合いをつけて通っていました。
私としては、大検(高校卒業程度認定試験)でいいと思っていたんですけどね。
だからずっと学校に行かないというわけではなく、休みつつも行ってはいました。
「卒業は危ないよ」と3年生の時に言われたくらいです。
生きる支えは、たった1つの「夢」。
——学校を休みがちになった時には、どんなふうに過ごしていましたか?
学校は行ったり行かなかったりでしたけど、絵を学ぶための画塾と、受験用の塾にも通っていて、その2つは欠かさず行っていました。
——画塾・学習塾・学校と、3つ掛け持ちとは、大変でしたね。
そうですね、けっこうハードな生活をしてました(笑)
学校の優先順位が一番低くて、6時間目だけとか、遅刻して行く日も多かったです。
でも、体力的なきつさは、精神的なきつさに比べると、まったく問題ではなかったです。
——画塾は、自分から行こうと思ったんですか?
自分からです。
グラフィックデザインを勉強したいと思っていたので、美大に行くことは決めていました。
実際に通うようになったのは、高校1年生の終わりからです。
画塾は、当時通っていた学校と繋がりがあったところへ、自然と通うようになりました。
絵の世界はすごく自由で、それが救いでした。
——「絵の世界は自由」と思った理由を教えてください。
自分が見ている世界を表現できるという事でした。
画用紙に出てきたものが違うなら、すり合わせるように努力すればいい、という、とても素直でわかりやすいものでした。
他の人とは違う感性が強みになる世界でした。
それは、みんなと同じように学校に行けない自分を少しだけ肯定する理由にもなりました。
私は、お金がなくても、孤独であっても、夢があるから生きていける、という人生が理想でした。
好きなことがあるのは、すごく大事だと思います。
——その時の夢は何だったのでしょうか?
本の装丁家になりたいと思っていました。
装丁家になって、30歳でフリーになって、超売れっ子になって一生働いて死ぬぞー、と思っていました。
「西岡さんにこの仕事をやってほしい」と言われたかったんです。
悩んで動けない自分からの卒業
——大学に入ってからはいかがでしょうか?
結局2浪しましたが、行きたい大学にも行けず、後ろ向きでした。
実技の時間は教室に行けなくて、授業もほとんど出られませんでした。
教室には、たくさんの人がいて視線をあびるのが苦痛だったんです。
課題の提出の時には必ず、みんなの前で自分の作品をプレゼンする講評の時間があるんですが、私は前に出ただけで泣いてしまって一度もちゃんとできなかったんです。
結果、デザインもまたアレルギーのようになってしまい、美術館に行ったら泣いちゃうような時期もありました。
それでも、何とかあがいて、卒業制作で本を書くことに行きつきました。
「やりたいこと」と「できること」がちょうど重なったのが、文章を書くことだったんです。
私がやりたかったのは、絵を描くことではなく、自分が見ている世界の景色を記録することだったようです。
それまで生きてきて、回り道ばかりで、人と違う所から物事を見てきた私の人生の集大成でした。
文学部に行ってもこの答えには辿りついてはいなかったと思います。
ルートとしては外れているけど、それまで抱えていたもやもやに、やっと結論が出た瞬間でした。
文章を書くことは、今でも続けています。
これがあるから、私は今、自分が生きていることにOKを出せます。
——今は、絵を描くのは好きですか?
全然描きたくないです(笑)
——今後の活動については、何か考えていることはありますか?
地に足をつけて、自分が楽しいと感じることをやっていきたいと思っています。
これまでは悩んで動けないことが多かったんです。
でも、大きなことじゃなくても、何か1つやってみたら何かがちょっと変わるかもしれない。
Rizも含めて、小さなことでいいから、楽しいことをやっていきたいです。
不登校は、前向きな選択。今苦しむあなたに伝えたいこと
——最後に、今現在、不登校などで苦しんでいる中高生たちへのメッセージをお願いします。
毎日苦しいし、死にたくなるし、終わりは全然見えません。
振り切っても振り切っても襲ってくる不安に、息をするのも精一杯なときもあります。
毎日が、今日も何とか生き延びた、と感じることの連続かもしれません。
私は当時、この苦しみからいつか抜けだせるなんて、全く信じられませんでした。
だけど、少なくとも今あなたが見ている世界が全部ではないです。
学校に行けないという事は実は大きな問題ではありません。
きっかけが何であれ、あなたのやりたいことは学校という箱の中では見つからないので、学校が必要ないだけかもしれません。
学校でしかできないことって実はほとんどないと思います。
不登校は親の価値観と決別し、自分の価値観を構築するきっかけです。
予定より早く、やりたいことを探し始められる、とても前向きな選択かもしれません。
どうしたって自分とは向き合わざるを得ないので、戦って、逃げて、命からがら生き延びられたら幸いです。
そういう人にしか見えないものがあるし、感じられないものもあります。
それはとっても価値があるものです。
今はそうは感じられなくても。
学校に行きたくなかった当時はそんなこと思わなかったけど、結果的に今はそう考えています。
[写真:吉中智哉]
- ◆にしおか
- 広島県出身、1987年9月22日生まれ。
登校拒否、引きこもり、浪人、留年などを経験し、Rizの交流スタッフとして活動している。
現在は趣味で人にインタビューをして本を執筆中。
編集後記
にしおかさんは、一目見たときから、「話す前からこんなに優しさオーラを感じる人が他にいるだろうか」というくらい優しげな印象のある方でした。
インタビューの最中も、こちらの質問に対して1つひとつ丁寧に考えながら答えてくださって、有難かったです。
にしおかさんは「自分はがっつり不登校やったわけじゃないから、(Rizのインタビュー記事に載って)大丈夫かな」と心配していたけれど、西岡さんのように「学校に窮屈さを感じながらも通い続けている」「生きづらさを抱えながらも必死に生きている」という人は多いと思います。
多くの中高生たちや、不登校だった方にとって、にしおかさんの話は、救いの1つとなるのではないかな。
Rizでは週2回程度スタッフとして滞在しているのに加え、現在はインタビュー記事の執筆など、精力的に活動してくれています。
少しでも気になった方は、ぜひ話してみてください^^
(オフショット。こんなお茶目な一面もある、かわいらしいステキな方です。)
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