「発達」は、「できるようになる」だけではない?自分の言葉の捉え方を考える

今日、大学で興味深い話をききました。
私は現在大学二年生なのですが、「教育学」という科目の講義で、「発達」という言葉の意味を考えたときのことです。

「できること」だけが「発達」なのか?

昔は「発達」というと「生まれた赤ちゃんが青年になるまでの諸能力の成長」だと考えられていました。歩けるようになるとか、身長が伸びるとか、知識がつくとか、なんらかの「できることが増える」「分かることが増える」というものが「発達」だといわれていたのです。
しかし人間は、どんなヒトでも「成人期⇒老年期⇒死」というプロセスをもっています。不慮の事故やさまざまなものが影響してしまいますが、生きれいればいずれは老いてゆくものです。
では、私たちはある段階から発達が止まるんでしょうか?
できることがだんだんと少なくなったら、もう「発達」はできないのでしょうか。
そんなことはないはずです。
教育学の先生は「「成人期⇒老年期⇒死」という中での諸能力の下降も発達に含まれるべきではないか」と言っていました。
つまり「できなくなる」「分からなくなる」ということも発達のひとつだ、ということです。
私たちが生きている限り、記憶力が落ちたり、筋肉量が減ったり、だんだんと「できること」よりも「できなくなったこと」の方が多くなっていきます。
発達というと、「成長」とか「進化」とか、なにか「プラスが生まれる」という意味に捉えられることが多いと思いますが、必ずしもそうではないんですよね。

言葉の意味の捉え方

私たちは日々、いろいろな言葉をつかいながら生きています。
けれどその言葉ひとつひとつの意味が、必ずしも目の前の相手と一致しているとは限りません。
私は「成長」という言葉も、「なにかができるようになる」ことだけではないと思っています。「自分の得手不得手を把握する」つまり「自分を知る」ということも「成長」のひとつなのではないでしょうか。
どうしてもできないことにぶつかると、「成長できなかった」ように感じるかもしれないけれど・・・本当はそうではなくて「自分にできないことを知った」ということで。できないことが分かったら、「できるようになる工夫」を考えたり「得意な人に頼る」だったり、なんらかの対策をとることができます。
自分でなんでもできるようになる必要なんてなくて、「まわりに任す」というのも、ひとつの大切な能力なのではないかなぁ。
たとえば私がいつかおばあちゃんになったら、きっと今より走るのは遅いだろうし、転びやすくなるだろうし、物忘れも増えるだろうし、体力も落ちると思います。でもそれは「成長できなくなった」のではなくて「成長するヒント」が生まれたんじゃないでしょうか。転びやすくなったなら杖を用意したりかかとの低い靴を履いたりすればいいし、物忘れが増えたらメモする習慣をつければいいし、そうやって「今の自分に合わせて工夫していく」ということができれば、老いるということは必ずしもマイナスなことではないのかもしれません。まだ、若くいたいけれどね。笑
鷹れん

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