日頃、私たちがなにかを見るとき、なんらかの「フィルター」がかかっていることは多いと思います。
それは、人に対しても同じこと。
病気。障害。立場。役職・・・。人にはいろんな要素があって、そのひとつひとつに対する「考え方」があると、相手そのものを見ずにそれらの「考え方」を集約してひとりの人間としてしまうことは、少なくないのではないでしょうか。
例えば「親」で考えてみましょう。
「親とはこういうものだ」「親はこうあるべきだ」そんな考え方を持っていると、ついそれを自分の親やまわりの「親」という立場で生きている人たちに求めすぎてしまうことがあります。
もちろんそれは価値観のひとつなので、「親とはこうあるべきだ」と考えること自体は悪くありません。
しかし、その考え方を人に求めてしまうと、お互い苦しくなってしまう可能性がある気がします。
こころの「フィルター」をはずしてみる
そんな「フィルター」は、気づかなくてもたくさんあるものです。
フィルターを無くすことももちろん大切だと思います。けれどそれは、ほんっとうに難しい。誰にでも出来ることではありません。日頃は意識していても、カッとなるとつい「親のくせに!」「男のくせに!」と声を荒げてしまうことだってあると思います。
本当に大切なのは「フィルターを持っていることを自覚する」ことではないでしょうか。
「~~はこうあるべきだ」「~~はこういうものだ」「~~はこうしなければならない」
そんなフィルターをフィルターとして認識しないままひとつの「事実」として受け止めてしまうと、それは非常に危険なことではないでしょうか。
フィルターはあくまで「価値観」であって、「事実」ではありません。
全ての親が同じ尺度ではかれるわけではないのです。「親としての正解」なんてわからないまま親たちは模索して生きてゆきます。
それは子供も同じこと。子供たちみんなを同じ尺度ははかることはできないのです。「愛される子供」のカタチなんて決まっていません。そんなものわからないまま、まわりに愛され、育まれ、そしてまわりを愛しながら、生きてゆくしかないのです。
親や子供以外でも同じです。
性別。年齢。職業。立場。苦手なこと。得意なこと。好き嫌い。
人をカテゴライズすると、すごく単純になります。「この人はイイ、この人はダメ」とフィルターに沿って決めてしまえばいいのです。
しかし「人」というのはそれほど単純ではありません。カテゴライズできない部分なんてやまほどあります。
たとえ同じ性別だとしても、さまざまな違いがあります。たとえどんなに似通った経験をしてきたとしても、人が違えば価値観も違います。
「そんなの当たり前」と言う人もいるでしょう。しかしそんな単純で当たり前で簡単なことを忘れてしまうことがあるのです。人間だから忘れることはしかたない。その代わり、忘れるたびに思い出しませんか。「当たり前」こそ見えにくいことを。
・・・なんて。私自身、「当たり前」を見過ごして後悔することばかりなんですけれどね(汗) 自戒もこめて、綴らせていただきました。鷹れん
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