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自分の「弱さ」は「強さ」なのかもしれない。

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ある人に、姿勢について褒められたことがあります。猫背とかの姿勢じゃなく、物事に対する姿勢や、生き方のようなものです。そのとき褒められたのは
・「自分にできることは全部やる」という姿勢♡
・「誰にもみられてなくてもやる」という姿勢♡
・「誰かの頑張りに気づいて感謝する」という姿勢♡
・「できれば誰も傷つけたくない」という姿勢♡
の4つでした。この4つについて、今日は考えてみようと思います。

ある人に褒められた4つの姿勢について

「自分にできることは全部やる」という姿勢♡

まず一つ目が「自分にできることは全部やる」という姿勢
確かにそうですね。自分にできることは全部やろうとします。全部を総合したらキャパを超えるかもしれなくても、「ひとつひとつは行けるから」とエンジン全開で突っ走っちゃいます。
たとえそれが自分の好みでなかったとしても、「それで楽になる人がいる」「笑顔になれる人が増える」というだけで私は元気百倍。厳密に言えば、私は誰にも負けないくらいの「知的好奇心」を持っているので、多少好みじゃなかったとしても「知りたい」というエネルギーで走れちゃうんですよね。
自分に得がないものだとしても、あんまり関係ないです。何故なら「知的好奇心を満たせる」というだけでこれでもかったほどの「得」になるから。無敵ですね。
思い返せば小学生の頃も、みんなが嫌がりそうな役割を率先して担っていました。掃除も、誰もが嫌がる真冬の水ぶきやトイレ掃除ばかりやっていたし、机の脚も数え切れないほど拭きまくりました。キュキュッとなる音は快感でしたね。
それは知的好奇心とは関係ありませんが、とにかく「みんなが嫌がる仕事」をすることになんの抵抗もありませんでしたし、「誰でもできる、誰かがやらなきゃいけない仕事」があるならむしろ好んでそれをするくらいでした。
別にそれをするからといって見返りを求めていたわけではないし、むしろ「普段お世話になってる学校をキレイにするのは当然」くらいに考えていました。借りたものは借りる前よりキレイにして返すのが礼儀・・・ってのが持論ですからね。そりゃあピッカピカにしますよ。
・・・と、話がそれましたが。とにかく子供の頃から私は「自分にできることは全部やる」という姿勢で生きてきたわけです。

「誰にもみられてなくてもやる」という姿勢♡

上のと通じますね。
以前、中学生のときに私を含めた男女6人ぐらいのグループで技術室の掃除担当になったことがあります。(当時は班で掃除箇所がわかれていたんですね。懐かしい)
他の子はみんなテキトーに箒で掃くくらいだったのですが、私はどうにも落ち着かず。作業机の下にある木屑やほこりが気になってしょうがなかったのです。結果私は、みんなが片付けをして遊びに行った後も、ひとり掃除を続けました。掃除の時間のあとのお昼休みもぶっ通しで。結局その後チェックしにきた先生に見つかって他の子らは怒られていたのですが、「しめしめ」と思ったりはしませんでした。
私にとってそれは単なる自己満足に過ぎなかったんです。別に他の子らがその時間外でキャッチボールをしていたとしても、先生が私を褒めるよりもまわりを叱ることを優先したとしても、私にとってはどーでもいいことでした。どーーーーでもいい。
私がなにかタスクを担ったり役割を負うときに、「褒めてほしいから」「かまってほしいから」という気持ちを原動力にすることはほぼほぼありません。小学生くらいのときは少しはその気持ちもあったかもしれないけれど、今は誰にも見られなくても、やることは変わりません。
見ようによっては、少々ドライなのかもしれません。
・・・そりゃ、褒められたら嬉しいけどね。嬉しいけどね!! そういう意味では、今まわりにいるのは「褒めるのが得意な人」「褒めるのが好きな人」が多いので、ちょこっとだけ贅沢になったような気もします。

「誰かの頑張りに気づいて感謝する」という姿勢♡

これは、単純に頑張りに気づいてもらえたときの嬉しさに気づいてしまったからだと思います。
「頑張りに気づいてほしいから」と頑張ることは(私の場合は)ないのですが、「頑張りに気づいてほしくない」わけでもありません。気づいてもらえば嬉しいし、褒めてもらえたらもっと嬉しいです。えげつなく嬉しいです。
日陰での努力は、案外しんどいです。
私は、自分がしたことによってまわりの人が笑顔になってたり楽な思いをしていたらそれだけで満足しちゃうのですが、すべてのタスクが目の前で相手の笑顔を見れるわけではないし、モチベーションを保つのは簡単なことではありません。
「さぼっちゃおうか」そんな誘惑も多いです。己との戦いばかりしています。
けれど、それは私だけではありません。
一生懸命見えない場所で努力をしている人は、きっとどこにでもいるのだと思います。見えないからこそ、その存在感は薄いし、日頃は意識できないけれど・・・見えないからこそ、それを想像する意識はしていたいと思います。
例えば私が今日こうやってブログを書いたりパソコンを使えているのだって、偉大な発明家や電力を運んでくれる人、パソコンを作ってくれる技術者さん、いろんな人の努力があるからこそ成り立つことです。
どんなものも、努力なしには成しえません。
だからこそ、全部には無理でも、気づいた努力には感謝したいです。それが自分に関連するかとか自分にどんな得があるかとかじゃなくて、頑張っている人の存在そのものに感謝していたいのです。

「できれば誰も傷つけたくない」という姿勢♡

この4つを伝えられたとき、これが一番印象的でした。
私は過去、いじめや不登校、家のいづらさ、さまざまな「生きづらさ」を抱えて生きてきました。(貧困層の子供たちに比べたら・・・みたいなものもあるかもしれないけれどそれはまた別の話です。)
たくさんの言葉に傷つけられました。もちろんその全てがわざとなものではなかった(と信じてる)けれど、全てがわざとでないわけでもありませんでした。
故意に、私を傷つけるためだけにつかわれた言葉もあります。
だからこそ、私は言葉で人を傷つけたくありません。
誤解を生む可能性が少しでもあるならフォローの言葉を追加します。できるだけやさしい言葉を使うようにしています。攻撃的な言葉が必要なときは傷つける意図はないことを示します。厳しいことを言った後は、必ずフォローの言葉を贈ります。「これしないで」みたいな否定形ではなく「こうしてほしい」とあくまで希望を伝えるようにします。この言葉をつかったら読んだ人はどのように感じるだろうかと出来る限り想像力を働かせながら、言葉を綴ってゆきます。
傷ついたから優しくなれた・・・なんてカッコイイことは言えないけれど、「傷つけられる側」の体験ができたことは、とても尊いものだったと思います。

この4つの姿勢の共通点

  1. 「自分にできることは全部やる」という姿勢♡
  2. 「誰にもみられてなくてもやる」という姿勢♡
  3. 「誰かの頑張りに気づいて感謝する」という姿勢♡
  4. 「できれば誰も傷つけたくない」という姿勢♡

この4つの姿勢には、ある「共通点」があります。なんだと思いますか?
それは「私の弱さから来ている」ということです。
自分にできることは全部やるのは、忙しくしていれば自分の弱さやトラウマを直視できずに済むからです。
誰にもみられなくてもやるのは、弱い自分を少しでもスキルアップさせて自信をつけたいからです。
誰かの頑張りに気づいて感謝するのは、日陰で報われない努力を繰り返す経験をしていたからです。あの心細さを知っているからこそ、まわりの頑張りには感謝していきたいと思っているのです。
できれば誰も傷つけたくないのは、私自身が傷つけられたくないからです。
この4つは、全て私の弱さゆえの姿勢なのです。
ひとつひとつは、外からは「素晴らしい姿勢」に見えるかもしれない。けれど内から見れば、それは単なる「弱さゆえの行動」でしかなくて。私にとってこの4つは、コンプレックスのようなものでした。
だからこの4つを褒められるというのは、私からすると「コンプレックスを褒められる」のと同じこと。最初は嬉しさよりも驚きの方が大きかったけれど、じわじわと幸せを噛み締めることができました。

まとめ

「コンプレックスを褒められる」というなんとも不思議な体験をしてきた私ですが、今日伝えたいことはひとつだけ。
「自分が“弱さ”だと思っていても、見方によってはそれは“強さ”なのかもしれないよ」ということです。
どんな人も一長一短。本人から見れば短所だとしてもまわりから見れば長所なのかもしれません。
大切なのは、素直な自分でいることではないのでしょうか。私は、短所も長所も大切にして生きてゆきたいです(*´`)
ではでは、最後までお読みいただき有難うございました。たくさんのありがとうを伝えてくれる親愛なる友人に愛を込めて。鷹れん

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