子どもはオトナのおもちゃじゃない

どうも、鷹れんです。
皆さんは「7歳の少年が山に置き去りにされた」というニュースはご存知でしょうか。
捜索三日目の今日も、男の子は見つからなかったそうです。
このニュースを観ていて、とても複雑な心境になってしまいました。

「しつけ」ってなに?

その男の子の父親は、「しつけ」として男の子を山に置き去りにしたんだそうです。
しつけってなんなんでしょうか。
親が子を“躾ける”ためなら、命を脅かしてもいいのでしょうか。熊や野生動物が生息するような場所にほっぽりだしていいのでしょうか。それはもはや、しつけとは呼べません。
私が10歳くらいのとき、父親に“躾けとして”ガスコンロから出る火に手を無理矢理かざさせられたことがありました。手首を強く掴まれて、無理矢理。
きっかけは、家のつくり上冷蔵庫を開けるときに背中側にガスコンロが来るため、私の髪の毛が火に近づきかけたことでした。
何十分も正座させられたこともあります。ビンタをされたこともあります。家の内鍵を閉められ寒空の下何時間も外にいたことだってあります。言葉の暴力も幾度と無くありました。
「しつけでしょう」と片付ける方もいらっしゃると思います。
しかしこれらは、教員がやった場合問答無用で体罰です。では何故「親」だったらしつけになりうるのでしょうか。
もちろん教員と親を完全に平等な立場として見ることはできません。
しかし親だって、特別な権利は持っていないはずです。
子どもだって、大人と変わらない人権を持っています。学ぶ権利、生きる権利。それらの権利を迫害することは、たとえ親だって許されないはずです。
今回の「置き去り」というのは場所も北海道の広大な山林の中ということですし、きっとこれを「しつけ」と片付ける人はいないでしょう。……いないことを願います。
しかしこの父親が置き去りにするのが街中だったら? 家から徒歩1時間の場所だったら?
「しつけ」と言い出す人はゼロでしょうか? きっと、誰かは「しつけだ」と言うのではないでしょうか。しかし「置いていくからね!」と信頼している親に言われて見知らぬ土地に放り出された子どもは、どう感じるでしょうか。
仮に命が無事だったとしても、置き去りにされた子どもの心にはどれだけの傷がつくのでしょうか。

しつけ≠大人の鬱憤晴らし

私は、「躾け」は漢字のとおり「身を美しくするためのもの」だと思っています。
礼儀作法。常識。マナー。言動……。
決して、大人の鬱憤晴らしに子どもを利用するためのものでも、大人の言うことを全てきく従順なお人形さんを量産するものでもありません。自分の力の無さを誤魔化すために「あなたのため」と言いながら子どもを「弱者」にしたてあげるためのものでもありません。
私はずっと大人の鬱憤晴らしに付き合ってきました。
私自身はそれを「しつけ」だとは捉えていません。
火の危険性を訴えるのに子ども自身を火に近づける必要はないでしょう。
暴力で抑えつけても、子どもは成長できません。むしろその成長にストップをかけてしまいます。
「自ら考える」人ではなく、「親の正解を自分の正解とする」人になってしまうからです。もちろん一概には言えませんが、私は小さいとき「親の正解が自分の正解」だと本気で考えていました。その常識を疑ったこともありませんでした。
抑えつけるんじゃなくて、どうか子どもの芽を見つけてください。
イラつくときもあるかもしれません。それまで従順でいい子だったわが子が急に反抗的な態度になったりしたら、思わず手が出たりしてしまうかもしれません。親も子も人間だから、それはある程度しかたのないことなのかもしれません。
けれど。
それは決して許されていいことではないはずです。
子どもが安全に生きるために。成長するために。

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