生きていれば、いいことあるよ。死にたい気持ちと向き合い続けてきた中高生時代【元不登校生インタビュー 第4弾】

※このインタビューはフリースクール「Riz」との共同制作記事になります
学校での居場所のなさなどで苦しんでいる中高生たちへ向けて、不登校経験者たちに当時~今に至るまでの話を伺う「元不登校生インタビュー」。
今回は、中高生時代にずっと居場所のなさを抱えていたと言う、「雪灯」さんにお話を伺います。

──まずは簡単に、自己紹介をお願いします。

雪灯(ゆきひ)です。
よろしくお願いします。

今は大学生で、養護教諭(保健室の先生)になるための勉強しています。

―—すごいですね。勉強難しくありませんか?

そうですね、専門科目になると今まで学んでこなかったところを勉強するので難しいです。
身体の細かいところの名称まで覚えなきゃいけなかったり、養護概論という講義では養護教諭の歴史や役割などについて学んだりしています。

―—特に興味深い講義はありましたか?

心理学概論でうつに関する授業を受けた時は面白かったです。
内容は、カウンセリングの内容や受け方、受診率などについて男女の違いについて。
女性のほうが患者数は多いのに自殺率は男性のほうが高いんですよね。

私は、大きい枠だとうつ患者になるので、自分の経験も重なって興味深い内容でした。

―—大学がしんどくなることはあるのでしょうか。

大変な部分もあるけれど、いい友達にも恵まれて、なんとか通えています。
専門的な授業では、経験上どうしてもショックを受けることも多かったですが、友達が休んだ時は授業の概要を書くなどして、フォローもできるようになりました。

―—そうなんですね。本日はよろしくお願いします。

はい、よろしくお願いします。

もっと頑張らないと。生きにくさを抱え続けた中学時代

―—雪灯さんは、いつぐらいから学校がつらいと感じていたんですか?

最初に学校がつらくなったのは、中学2年生の時です。
オーケストラ部に所属していたんですが、同級生が誰もいなくて、後輩には教えないといけないし、先輩には追い付かないとだし、とにかくプレッシャーを感じ続けていたんです。

―—後輩と先輩の間で、板挟みになってしまったんですね。

後輩2人に教えていたんですけど、どうしても差が開いてしまって。
当時は、「私の教え方が悪いのかな」とも考えていました。

夏休みに入ってすぐに発表があって、先輩の足を引っ張らないようになにもかも完璧にしないと、と自分を追い詰めた結果、キャパオーバーになってしまいました。

クラスでもいろいろとあって、安らげる時間はなかったです。

―—それはつらかったですね……。

自傷行為や自殺未遂をする時もありました。
その時、一緒に下校してた親友兼幼馴染に「死にたい、もう無理」って相談したら、「死んだらだめ」って止めてくれんです。

つらい気持ちはずっと持っていたし、自傷することもありました。
でも、当時の担任の先生に話を聞いてもらったり、周りの親友たちから「大丈夫?」と気遣ってもらったりしながら、春ぐらいからは言葉にすることはなくなりました。

死にたい気持ちが怒られた。私はどうしたらいいの?

―—当時、ご家族とはいかがでしたか?

中2の時、遺書を書いていたことや自傷行為をしていたことが両親にバレたんです。
母親に遺書を読まれて、父親にはこれでもかというほど叱られました。

話をしたくないから布団に逃げましたね。
豆電球だけついた寝室で、母親に泣きながら「雪灯、なんでそんなこと言うの」と言われた時は、すごくショックで、眠れませんでした。
それまで、母親の泣く姿なんてほとんど見たことがなかったんです。

また怒られたり、泣かれたりするのが怖くて、両親に相談する選択肢は私の中でなくなりました。
今でも一種のトラウマです。

―—それでは、誰かに頼ることも難しくなってしまいますよね。

病院に行くこともあったけど、当時通っていた病院の担当の先生とも相性が合わなくて、嘘を吐き続けていました。
拒否反応が出てしまうほどで、話はまったくできなかったです。

信頼できた大人は当時の担任の先生くらいです。
今でも文通させてもらっていて、一番しっかり話を聴いてくれた人でした。

―—当時、どんなものがあれば、楽になれていたのでしょうか。

「話を聴いてほしい」という気持ちが一番強かったように思います。
兄妹も、一番下は当時まだ保育園に通う年齢で、そもそも長女だし、頼れなかったんです。
兄か姉がいたら、もう少し楽だったかもしれません。

中学校卒業するまではずっと思っていたし、今でも時々思うことがあります。
言い出せないのが一番つらくて、だから悩みやつらさを言える相手がいたら、少し変わったんじゃないかな、と思います。

人間関係、勉強。苦しいことばかりの高校生活

―—高校生になってからは、どうでしたか?

入学当初から、人間関係が築かれていくにつれて、クラスに馴染めなくなってしまいました。
担任の先生も話しかけにくい雰囲気で、つらかったです。

―—クラスのどんなところが苦手だったのでしょう。

周りに壁があって、入りにくい空気感があったところです。
そもそも同じ中学出身の子が1人しかいなくて、仲良くしている子がいない状況だったんです。
話しかけてくれた子はいたけど、人見知りしてしまって、話しづらくなっちゃうことがほとんどでした。

仲の良い子が1人いたけど、積極的に周りと仲良くなろうとはしないタイプで無口な子だったので、だいたい2人で過ごしていました。

―—他に、つらかったことはありますか?

地元ではかなりの進学校だったので、勉強についていくのもつらかったですね。
テストのたびに赤点をとっていました。

特に理数系は中学生の時から苦手で、数学と物理基礎はひどかったです。
英語は先生がすごく厳しい人で、魔女みたいだと思ったほどでした。
体育も、体力テストで「E」の評価をもらうレベルで苦手なのに、よりもよって選択した科目が柔道で、しんどかったです。

―—それでも、頑張って通われていたんですね。

休むことはできなかったです。
言い出すこともできなくて、木曜日だけが楽しみでした。
家庭科の授業と、大好きな部活がある日だったんです。

それ以外の日は楽しみなんて1つもなくて、通えてはいたけれどかなり限界に近い状態でした。

―—家族にも頼れないなか、苦しかったですよね。その後はどうされたんですか?

頑張って通っていたんですけど、夏休み頃に何かがぽきっと折れた気がしたんです。
夏休み明けの初日、布団にこもって「もう行かない」って両親に伝えました。

両親は夏休みの課題ができていないからとか、そういう認識だったと思います。

弟・妹たちの前では、「いつでも頼れるお姉ちゃん」でいたかった。

―—学校に行っていない間の過ごし方について教えてください。

両親が共働きだったので、日中は1人で過ごすことが多かったです。
布団かぶって昼間まで寝て、起きたらケータイをいじるような生活でした。

とにかく人目につきたくなくて、なにもかもシャットアウトしたかったんです。
両親にも会いたくないし、とにかく弟や妹たちに今の姿を見られるのが嫌でした。
「いつでも頼れるお姉ちゃん」でいたかったんです。

今でも精神科に通っていますが、そのことを含めて私が学校に行けなかったことなんかはすべて伝えていません。

―—何が一番、苦しかったですか?

小中学校が代休だった日です。

兄妹に知られないためには学校に行くしかない。
でも、気持ちとしては行きたくない。

特に月曜日は一番行きたくない曜日だったので、「強いお姉ちゃん」と「弱い私」のギャップがつらかったです。

―—学校のほうは、どうだったのでしょうか。

1年生の時は、学校に呼び出されて「出席日数が足りない」と言われました。
友達と一緒に卒業したくて、留年はしたくなかったので、3学期は無理やり学校に通うような状況でした。

35時間分、時間補充の授業を受けて、なんとか単位を取りました。
遅刻の回数も相当あったと思います。

学校に戻ってからも葛藤の日々。

―—2年生になってからは、どうされたんですか?

進級と同時に、また学校に通うようになりました。
でも、4月から溶け込めない感じはあって、夏ごろにまた通えなくなってしまったんです。

仲の良い子もいたけど、その子たちが他のクラスメイトと話している時にどうすればいいのかが分からなくて、クラスが居づらく感じるようになりました。

相変わらず勉強も難しくて、ついていない部分も多かったです。

―—せっかく頑張ったのに、つらかったですね。

限界がきて、夏休みが終わったところでまた学校を休むようになりました。

でも、文化祭の準備をする中で仲良くなった子がいて、席も近かったのでよく話すようになりました。
それから少しずつクラスに馴染めるようになり、3学期には「このクラスで良かったな」と思えるようになりましたね。

行けない日があっても、1年の時とは違って周りの子がかなりフォローしてくれて、すごく助かりました。

―—それは良かったですね。何か良い思い出はありますか?

電車の路線の存続運動が毎年あって、1年生の時は勝手に欠席する流れにされていたんですけど、2年生の時は「一緒に行く?」って誘ってもらえたんです。
みんなで笑って歩けて、それがきっかけで少しずつ学校に行けるようになりました。

受験による義務感から通うも、心はつらいまま

―—3年生になってからも、クラスは居やすい雰囲気でしたか?

クラス替えで心配していたんですが、仲良くなった子たちは一緒のクラスになれました。

でもこの時は、行きたい行きたくないではなくて、「受験だから行かなきゃ」という義務感から通っていました。

行かないとまたひどいことを言われるんじゃないか、怒られるんじゃないかという恐怖心は常に抱えていました。

―—では、ご家族との関係も良くならないままだったんですね。

学校を休むことについては、めちゃくちゃ怒られていましたね。

「あんた、兄妹になんて説明するの」
「弟が“宿題終わってないから学校行きたくない”って言いだしたの、あんたが休んでるからじゃないの」
高1の時に言われたことは、今でも脳裏に残っています。

父親からは「お前、何で行かないんだ!」と思い切り右頬に平手打ちされたこともあります。
会社に行ってから謝罪のLINEが届いたけど、私はもう知らないって感じで。

両親には迷惑かけたくなかったし、行かなきゃいけないことも分かっていたけど、無理なものは無理だったんです。

―—ご兄妹とは、どうでしたか?

実は、妹が、私が自傷をやめるきっかけになってくれました。

一緒にお風呂に入った時に傷を見られて、「これ、死ぬ人がつける傷だよね」って言われたんです。本人は何とも思ってもいないし、覚えてもいないでしょうけど。
でも私はそのことにすごくショックを受けて、こんな思いをさせちゃってたんだって気付いて、それから自傷はやめたんです。

支えてくれたのは、家庭科準備室で食べるお昼ご飯と頼れる部長の存在

―—高校生の時は、先生は力になってくれなかったのでしょうか。

1年生の時に担任の先生に相談したことはあったけど、うつなどに関しての理解が足りないように感じました。逆にひどい言葉をぶつけられたこともあります。

話を聴いてくれたのは家庭科の先生で、2人で家庭科準備室でご飯を食べることも多くありました。
2年生になってからも、一緒にご飯を食べることはあって、学校に行けていないことも知っていたので気楽でしたね。

―—家庭科の先生の存在がすごく大きかったのですね。

そうですね。
それから、同級生で親友の部長にもすごく感謝をしています。

死にたい気持ちが一番強くなった時、「死んだら悲しい」って、ひたすら止めてくれたんです。
つらい時には学校辞めてもいいから生きてろって叱ってくれて、本当にたくさん支えてもらいました。

高校を卒業してからもLINEは繋がっていて、今でも連絡を取りあうことはあります。

―—高校を卒業して、今は大学生になられたんですよね。何か心境の変化はありましたか?

正直、あんまり実感はないです。
スクールバスからの景色を見て、ふと「大学生か」と思ったり。

ただ、目指している職業が職業なだけに、不登校や保健室登校なんかについても詳しく学んでいかなくちゃいけなくて。
その中で、自分が本当は法的には「元不登校生」に該当することを図らずも知ってしまって。
それまではただ、「元登校拒否生」だとしか認識がなかったので衝撃的だったし、かなりのショックもありました。
でも、それを逆手に取って、今の夢につなげることができたんじゃないかと思うようにしています。

ちょっとつらいのは、通学中に高校の最寄り駅に止まることです。
今でも、時々複雑な気持ちになります。

でも、たくさんつらいことがあったけど、笑って卒業できたので。
頑張って良かったな、と今では考えています。

―—良いですね。何かこれから頑張りたいことがあれば教えてください。

たくさんの人に支えてもらってきたので、これからは自分が誰かの明かりになれたらいいなと思っています。
「雪灯」っていうペンネームは高校の文芸部で使って以来ずっと使ってますけど、その名前の意味でもありますから。

私が住んでいるところにはフリースクールがなくて、高校生が行けるところとなると余計に限られてくるんです。

養護教諭を目指しているのも、一番の目標は誰かの居場所になるような施設を作ることです。
将来、学校に行きたくない子、家にも居たくない子に、「ここに居ていいよ」と伝えられるような場所が作れればと思っています。

まず、生きてほしい。今悩む子たちへ

―—では最後に、今悩んでいる中高生の皆さんへ、メッセージをお願いします。

まずは、生きていてほしいです。
何があっても、生きていればなんとかなるってことは、覚えておいてほしい。
生きていれば、何かしたらいいことがあると思うんです。

私自身、高校生の時にはめちゃくちゃしんどくて、「何かあったら死ねばいいや」くらいに考えていました。

生きづらいと感じる人は、頼れる人・ところを見つけるといいんじゃないかなと思います。
一か所でもあると、少し変わるんじゃないでしょうか。

うつを伝えて、相手が「そうなんだ」だけで終わった時、私は下手に詮索されることもなく、今のありのままの自分をすべて受け入れてもらえたように感じて、すごくほっとしたんです。
真っ向から自分を否定されるよりも、下手に詮索されるよりも、余計な同情を寄せられるよりも、私にとっては普段通りに変わらず接してもらえたことが嬉しかった。
そういう、自分がそのままに丸ごと全部受け入れてもらえた場所があるからこそ、生きてこられた部分はあると思います。

笑って生きててもらえたら、それ以上望むことはありません。
それさえできていれば十分だと、私は思うんです。

―—雪灯さん、ありがとうございました。

こちらこそ、素敵なお時間をありがとうございました!

◆雪灯
愛知県出身、1999年5月31日生まれ。
大学では演劇や和雑貨サークルに取り組み、養護教諭を目指して勉強中。
現在、10代向けコミュニティサイト「ティーンズプレイス」や相談サイト「ココトモ」でブログ執筆などに取り組む。

編集後記

雪灯さんからは、これまでの経験を活かそうとしていることがすごく伝わってきました。
わたしも動機の部分では共通しているので、お話を伺いながらすごく共感して。

いつか雪灯さんの「夢」が、「現実」のものとなったらいいなぁと思います。

死ぬか生きるか、瀬戸際のような場所で生き続けてきた雪灯さんだからこそ、作れる場所があると信じています。

それと同時に、あらためて自分自身も頑張っていかないとなと感じました。
Rizも、まだまだスタートを切ったばかり。
少しでも多くの小中高生たちが、少しでも楽に生きられるように、絶えずメッセージを発信し続けていきたいです。

雪灯さん、貴重なお話を聴かせていただいて、ありがとうございました!

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